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仏(ほとけ)とは真実の人間性

般若心経から


文明が進歩するほど、人間性やその生活は機械化され、標準化され、それが自由と創造の喜びを、人間から奪っていきます。
人間として完成するために努力する人を「菩薩」といいます。

人間はもともと尊厳な人間性を持っているのですが、そのことを自覚していません。
この人間性に目覚めるのを「成仏」といいます。

「成仏」とは、「人間が人間になる」と言うことです。言い方をかえれば
「成仏」とは、もう一人の自分に目覚めることです。

本来「ほとけ」とは、世間でいうような死人とか仏像ではなくて、
「真実の人間性」のことなんです。だから、自分の中に分け入って、
真実の人間性を開発するのが「般若心経」の「心」・・・「こころ」なのです。

世間で言う仏を説明しておきます

言葉の意味として、仏「ほとけ」とは、仏陀=仏教の開祖としてゴータマ・シッダルタ、
さし、釈迦と言う言い方はゴータマ・シッダルタの一族の名前で、覚者としては、目覚めた仏教の開祖(ブッダ・仏陀)をさし。 覚者となったあとは釈尊、釈迦如来あるいは仏教ではたんにブッダ・仏陀というそうです。

菩薩とは仏(如来)になれるが、人の救済のためなどあえてなろうとしない人を言います。

日本人は、わが家は○○宗だと宗派へのこだわりはものすごいものありますが、
宗派の違いについては全く無頓着なので、末寺もこれに悪のりして、
死者の婉曲的な表現として、「ほとけさま」といいます。

それは、浄土宗など浄土系仏教特有の死後の考えから、
死ぬと西方極楽浄土へと往生し、成仏するということから
「仏になる」 といわれています。

浄土系の宗派が言うのはわかります。
仏陀のいう仏教とは違いますが、これが宗派ですから!宗教の自由です。

浄土系作家が死者の世界を「極楽浄土」と書くと、
一般民衆は、死者の世界を極楽浄土」と思い込み、
そこで成仏するというから、つまり、死んだら「仏」になると思い込むのです。

映画「道元」で道元師は
「ほとけは、おのれのこころの中にある」
と言いますが、手遅れです。
このような映画が、もっと早くできていれば、
仏陀の言う「ほとけ」が定着したといえます。
ですから「仏(ほとけ)とは真実の人間性」といっても、
理解できないギャップがありますよね。


今日、一般の末寺は葬式、戒名、法事といった本来仏教とは関係がない。
仏陀や宗祖、開祖ですら言っていない仏事で収入を得ているので、
仏陀や宗祖、開祖の教えとは全くことなる宗教行事をするには、
死者をほとけとして、儒教の教えを真似た、葬式、法事を行っているのは嘆かわしいことです。
名誉のために言っておきますが本山は葬式、法事はさすがやりません。
先祖供養なども基本的にやりません。

TVドラマ(と言うことは作者がいる)等で警察官が、
殺人事件の被害者をガイシャなどいう警察特有の品の悪い表現の隠語と同じで、
遺体(死者)に対して「ほとけ」とか「ほとけさん」という言い方をしているので死者=仏と 言うようになったという人が多いです。
日本の仏教宗派は、仏陀や、その宗派の宗祖、開祖の教えに戻るべきです。
今、末寺に修行僧はいません。職として寺に住む、「住職」だけです。
本山は「僧籍」を与えていますが、管理者と「僧」は違います。
それには、末寺の経営をどうするかです。


戒名
戒名の前に位牌の説明がいりますね

位牌は、中国から仏教が伝えられた時、
儒教の教えによる先祖崇拝の習慣から、
両親や先祖の姓名や官位を木板に記入し、
礼拝したものが伝わったものといわれています。
今日では亡くなった人の霊をお 祀りするために、
表面に戒名、没日(死亡年月日)、
裏面に俗名(生前のお名前)、行年(亡年齢)等を
豪華な仕上の漆塗り位牌に文字加工仕上げをし、
忌明け法要後、白木のお位牌と入れ替えに
お仏壇にご安置して、僧呂が読経して魂をいれ
お祀りするのが一般的です。

真宗各派では、位牌は用いず法名を小さな掛軸にした法名軸、
過去帳に法名を記入してお祀りしたそうですが、日本人の右へならえ習慣で
他の宗派と同じようです。

この位牌や墓碑に戒名を入れるために、戒名を買うのです。
この戒名を売るのが末寺の主要な財源になっています。

戒名(かいみょう)は、仏教においては、出家して、
受戒した者に与えられる名前だったのです。

仏門に入った証であり、戒律を守るしるしとして与えられたのです。戒名は上座部仏教でも大乗仏教でも行われます。

多くの場合、出家修道者に対して授戒の師僧によって与えられます。
上座部では出家後に南伝仏典に残る阿羅漢に変名するため、
その意味で「法名」と呼ぶそうです。

日本においては、浄土経の影響で、死生観の世相に変化がおき、
死後に成仏するという偽仏教思想が中心になり、
故人に戒名を授けるという本来の仏教思想とは異なる風習が生れたのです。


外人は、戒名ではなく「改名」と思っています。


それは外人のほうが日本文化を研究しているからです。
最澄は死後 866年(貞観8年)、清和天皇より
伝教大師(でんぎょうだいし)の諡号が贈られています。
以後「伝教大師最澄」と称されます。
空海は死後、延喜21年(921年)10月27日、東寺長者観賢の奏上により、醍醐天皇から「弘法大師」の諡号が贈られています。
二人とも立派な僧ですが「改名」です。

高僧の最澄、空海は、死後の改名です。
天皇から与えられるのです。
この時代、まだ戒名はありません。


位の高い貴族や武士のトップは天皇から官位を与えられますから
墓標や位牌には、官位を書がかけます。
戒名が必要になってくるのは、こうした官位が貰えない、偉い人の奥さんたちや官位が貰えない地位の武士です。
女性は、院号を付けます。男性は院殿号です。院殿号は、戒名のひとつで、 本来は院号の下位ですが、江戸時代以降、実質上の権力者が院殿号を用いたため、 事実上の最高位の諡号とされるようになりました。
だれか権力のある人が、戒名はいらないといえば、戒名文化は廃れます。
何でも偉い人の真似をする文化。人がやってるから家もやらないと。。。と思うのが日本の恐るべき文化(見栄文化)です。

戦後は見栄文化が隆盛しますので、
末寺が大フィーバしたのは言うまでもありません。

仏教とはなんら関係ありません。もともとは儒教の位牌からきています。
位牌に見栄を張ろうとするから戒名が必要になってきたのです。
それは「葬式」「法事」と儒教文化に侵食されていきます。儒教が悪いわけではありません。
悪乗りする寺院が悪いのです。

一番悪いのは、無知な一般庶民です。文字が読めるようになっても読みません。
最後は「布施」の定義さえかえてしまいました。恐ろしいことです。
日本国中、みんな新興宗教になりましたね。


見栄で「こころ」は養えません。
現代社会に必要なのは、
仏(ほとけ)とは真実の人間性 を知り実践することです



恭仏院恭博


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