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喩(たとえ)話でわかりやすく説く経

仏教の難しい教えでもた喩譬え(たとえ)話で教えてくれるとわかりやすいものです。

有名なお経に法華経があります。
法華経と言うと○○学会が頭に浮かんで拒否反応を示す人がいますが、
仏教の経はどの宗派のものでもありません。
仏教界全体のものです。


『法華経』では多くの譬喩が説かれています。
法華経七喩(しちゆ) というものが有名です。

七喩とは、
@火宅の喩え(譬喩品)、
A窮子(ぐうじ)の喩え(信解品)、
B薬草の喩え(薬草喩品)、
C他城(けじょう)の喩え(化城喩品)、
D衣珠の喩え(授記品)、
E髻珠(けいしゅ)の喩え(安楽行品)、
F医子の喩え(寿量品)です。


たとえ話に寄せて、深い教えをわかりやすく説くのが比喩です。


1.三車火宅の譬  法華経 譬諭品 第三に出てくる譬え話しです。


物語
インドのある国のある町に、大きな長者がいました。
その家屋敷は広大なものでしたけども、門はごく狭いのが一つしかありませんでした。しかも、家は大変荒れはてていました。


ある日、その家が突然火事になりました。
家の中には、長者の子供達が大勢いて、夢中で遊んでいて、 火事に全く気づきません。長者は、大声で知らせますが、子供らに届きません。
その時、長者は、ふと子供達が車を欲しがっていたのを思い出しました。


そして、火事のことではなくつぎのように呼びかけたのです・・・。


『おまえ達の好きな、羊のひく車(羊車)、鹿のひく車(鹿車)、牛のひく車(牛車)が門の外にくるぞ、買ってあげるから早く出てきなさい!』


すると子供達は、その言葉を聞いて正気にもどり、
われ先にと燃えさかる家から出てきて助かりました。


長者が、子供達が助かって安心していると、
子供達は、口々に約束の車をせがみます。
すると、長者は、子供達が欲しがっていた車ではなく、
大きな白牛のひく大変豪華な車(大白牛車)をみんなに等しく与えました・・・。


補足
長者(子供らの父)とは、お釈迦さまです。
子供たちは、われわれ凡人です。
荒れはてた家とは、現実の人間社会です。火事は、われわれの煩悩をさしています。


われわれ凡人は、物質、肉体などにとらわれて、
なかなか苦しみからのがれられません。
そこで、お釈迦さまは、いろいろな教えをお説きになりました。
まずは、声聞(羊車)で、とにかくお教えを聞きなさい。
つぎに、縁覚(鹿車)で、とにかくお教えを体験しなさい。
最後に、菩薩(牛車)で、とにかくお教えで沢山の人をお救いしなさい。
などなどです。


そして、この3つ(三乗)の教えを実践して、
人格を高めて歩んでいけば・・・、ある一つの真理(大白牛車)にたどり着くのです・・・。 大白牛車は最高級の車ですこれは昔、昔のインドの話ですよ。


等しくと言うのもポイントです、
儒教世界では、兄弟でも長男が一番えらいのです。絶対に平等ではありません。


しかし、今でも仏教国であるタイ国では、兄弟は平等です。
長男だからという発想は全くありません。
徳川幕府で檀家制度が創設され、庶民は必ず寺の檀家に所属させられますが、
こんな平等の教えは厳禁です。変わりに儒教の講話をさせます。


インドはまだカースト制度が大きく残っているといわれます。
仏教はインドで生まれたのに!仏教はインドで生まれましたが、
仏教は消滅しました。
ヒンズー教やジャイナー教は、仏教と同じく輪廻転生の思想ですので同じですが、
教えは全く違います。



2.長者窮子の譬え 法華経 信解品 第四に出てくる譬え話しです


物語
幼い時に父(長者)の屋敷を迷いでて、
ゆくえ知らずにな、りはや50年。
放浪しながら国々で貧乏な暮らしを続けていた、
一人の貧しい子(窮子)がいました。


そして、放浪中、知らないまま、生国へたどり着きました。
偶然、実の父と、父とは知らずに、父の立派な屋敷の前で再会しました。
父親は、すぐに我が子だと気づきましたが、
窮子は気づかず、立派な父に畏れをなして、
屋敷から立ち去りました。

しかし、父親は、使用人へ命じ、
窮子と同じような貧しい恰好をさせて近づきさせ、
屋敷で働くように工作しました。
それで、窮子は、屋敷で働くようになりました。


父親は、始めは、便所掃除などの汚れ仕事から、
徐々に財産の管理などの重要な仕事へと段階的に出世させました。
窮子も、始めの卑屈な心から、次第に菩薩のような心へと、段階的に変化していきます。


窮子は、昔の極貧の境遇と、それに甘んじていた頃の、志の低さにくらべ、
今では、父の莫大な財産を得て、
広やかな思いは、生まれてはじめて味あう喜びでした。


補足
もちろん、父親(長者)はお釈迦さまの喩えで、
そして、窮子はわれわれ凡人の喩えです。
お釈迦さまは、われわれ凡人の、
志の低いところから徐々に高い所に導いて、
最後にはすべての人が、最高の境地で達することができる。と説いたのです。


そして、父親(長者:お釈迦)の言うことを信じ、
理解して、窮子は父親(長者:お釈迦)の後を継ぎ、
最高の境地を手に入れたのです。

ハッピエンドーストーリーですね
!志ははじめ低くとも、やっぱり大きく持てということですか!
法華経を信じて実践すれば、
ご利益が得られるというハッピエンドーストーリーですね!



3.薬草の譬え 法華経 薬草諭品 第五に出てくる譬え話しです。


物語
この地球上には、いろいろさまざまな草木が生い茂っています。その草木は、大きさにも大・中・小があり、性質もすがた形も、千差万別です。しかし、すべての草木に共通していることは、ひたすら雨のうるおいを欲し求めていることです。そして、雨は、どこにでも、どの草木にも、同じように平等に降りそそぎます。ところが、それを受ける草木の方では、その大小や種類の相違によって受け取り方が違ってきます。


仏の教えと民衆との関係もこれと同様であることを知らなければなりません。


補足
この譬えは、差別と平等について述べています。 も
ちろん、人間は平等だと主張しているのです。
仏教は「個」の平等です。
家族を代表して世帯種が寄付を・・・とかありません。
主従関係はありません。
今では常識ですが、危険といえば危険思想です。
インドでは消滅しましたが、よく生き延びたものです。


人々の天分や性質は、一人ひとり違います。
同じ人間として生まれても、
生い立ちも、健康も、環境も、職業なども、それぞれ違います。
そういう様々な条件の違いがあるため、人々が等しくもっている仏性は、
まったく平等であるにもかかわらず、
真理の雨の受け方にさまざまな違いが生じてくるのです。(差別論)


しかし、いくら受け方が違っても、それぞれの人が真理の雨を受けて、
天分の性質のままに成長し、それぞれの花を咲かせ、
それぞれの実を結ぶという点において、全く平等なのです。(平等論)


つまり、人間は、
それぞれ、姿、形は違っていても、それぞれに成長していくところは、
全く同じで、この事を認識することで、自
分を本当に生かし、他人をも本当に生かす、正しい生き方ができるわけのです。



今ある命に感謝して、
平等に降り注ぐ仏さまのお慈悲を信じて、
精一杯生きること。それが最も大切なことだというのです。


様々な個性の中で、自らの可能性を信じて精一杯努力することが大切なのです。
『努力すれば必ずかなう』とは言い切れませんが、
『努力しなければ自分の可能性の芽が伸びない』とはいいます。


仏のお慈悲の平等を信じ、個別の違い、『差別』の違い認め、
『平等と差別』をきちんと理解すること。
そして必ず来る死に至るまでの時間、自らの命を精一杯輝かせて生きようと努力することが、最も大切だというのです。
出なければ、輪廻して来世は、もっと苦しむよと脅すのです。


あえてここでは性別の差は出てきません。
しかし、どこかで女も成仏できると書いていたと思います。
仏陀の生まれたのは紀元前5世紀ごろで、身分制度が激しい時代です。
そのころ、是だけの平等論を主張するのです!釈迦は、すごい人です!



4.化城宝処の譬え 法華経 化城諭品 第7に出てくる譬え話しです。


物語
長くけわしく非常に困難な道を、宝物を探し求めて旅をしている一行がありました。
一行の中には、もう疲れてしまったり、
この道は恐ろしくて行く気にならなと言い出しました。
そこで、リーダーは、ひとつの大きな城を幻としてあらわしたのです。


一行は、その城で休息して疲れをすっかり癒しました。
それを見計ってリーダーは、その幻の城を消してしまいました。
「さぁ、本当の宝物のある場所はもうすぐだよ」と一行をはげましました。
そうやって、そこへ導きつづけたのでした・・・。


補足
「長くけわしい非常に困難な道」とは、われわれ人生の旅路です。
人生での出来事に疲れてしまったり、
迷いが生じた時に、とりあえず、迷いを除いて
、心に安心を得るように化城(幻の城)へとみちびいてくれるのです。


つまり、「目の前に現れる現象は、仮に現われたに過ぎないので、
それにふりまわされるな」ということです。


そして、捜し求めている宝物とは、
平和な世界ということです。
これこそが、捜し求めていたこの上のない宝物だったのです・・・。
人も国家も同じです。
平和であることが、一番安心できる世界です。
でうから、仏教家や信者は平和論者なのです。


5.衣裏繋珠の譬え  法華経 五百弟子受記品 第八に出てくる譬え話しです。


物語
貧乏な『ある人』が『友人』の家を訪問し、
ごちそうになり、酒に酔って眠ってしまいました。
ところが、その『友人』は、急に用事で旅立つことになりました。
寝ていた『ある人』を起こすのも気の毒と思い、また、貧乏から脱出できるようにと『ある人』の着物の裏の襟に『宝石』を縫い付けてから旅立ちました。


やがて、目を覚ました『ある人』は、『友人』がいなくなったので、その家を立ち去り、相変わらず貧乏な生活を何年も続けていました。


ずいぶんたってから、『友人』は、『ある人』にバッタリ出会いました。『友人』は、哀れな『ある人』を見て、「なんとバカなことだ、お前の着物の裏の襟の宝石を売れば、素晴らしい生活ができるのだ!」と言いました。


補足貧乏な『ある人』は、我々凡人です。『友人』とは、お釈迦様です。着物の裏の襟の『宝石』は、人の心の奥の仏性です。


要は、すべの人は、仏性(宝石)を持っているが、なかなか気づくことができず、苦の人生をさ迷うってしまう。救われるには、その仏性に気づき、仏と同じ命を生きていることに気づけばよいのだと。


人は誰でも思います。生まれてきたからには、素晴らしい生活をしたい と思います」!人の心の奥の仏性が、着物の裏の襟の宝石のように明らかであれば簡単に探せると、 誰もが思いますが、簡単なほど探せないものです。気がつかないものです。でも探す努力は必要です。探さなければ『宝石』は手に入りません。



6.髪中の譬え法華経 安楽行品第十四に出てくる譬え話しです。

物語
非常に強いある国の王が、その王に従わない多くの小国を次々と討伐しました。その戦争で手柄があった武将には、領地や衣服や宝石などを褒美として与えましたが、自分の髪に結ってあった「明珠の飾り」だけは、与えませんでした。


なぜならば、それはたった一つしかない最上の宝なので、もしむやみに、これを与えたら、王の一族が驚き怪しむだろうと考えてからです。


しかし、比べようのないような手柄を立てた者がいたら、おしげもなく髪に結ってあった「明珠の飾り」を与えるでしょう。


補足
この譬えは、法華経がとても難解なので、仏の教えを聞いて修行したり理解する度量・器のない人に説いては行けませんよ。しかし、修行したり理解する度量・器ができれば、おしげもなく法華経を説きなさい。ということの譬えです。


菩薩達が、民衆を教化して仏道に入ると、無漏(迷いがなくなる)や根力(精進の力)や 涅槃(煩悩を滅する)などを褒美として与えます、そして、菩薩達が仏法にたいする迷いをなくし、しかも信心が固くて大丈夫だと見極めたら、はじめて法華経を説くのです。


やっぱり、喩になっても難しいですね。



7.良医の譬え法 華経 如来寿量品第十六に出てくる譬え話しです。

物語
ある所にどんな病気でも治す名医がいました。
その医師にはたくさんの子供がありました。
ある時、用があって、他国へ出かけました。


その留守中に子供達は、したい放題の生活をして、
間違って毒薬を飲んで、地べたにころげ回って、苦しんでいました。
そこへ、突然、父が帰って、その状態を見て、良く効く薬を作り、
子供達へ与えました。


何人かの子供は、その薬を飲んで治りましたが、
ほとんどの子供達は、飲みませんでした。
なぜかというと、正気を失っている子供達には、その薬が良薬と思えないのです。
そこで、父は、何とか子供達に薬を飲まそうと、ある方法を考え、
子供達に告げました。


『私は年をとって、体が弱り、あまり先が長くない。
しかし、また用があって他国へ出かけなければならいのだ!』と良薬を置いて、
旅たって行きました。
そして、旅先から「使い」をやって『父上は、
お亡くなりになりました』と告げさせたのです。


それを聞いた子供達は、大変驚き、悲しみました。
しかし、正気を失っている子供は、ハッと目を覚ましたして、
良薬を飲んだので、毒による病は治りました。
そこに父が旅先から帰ってきて子供達の前にに姿を現したのです。


補足
医師はお釈迦さまです。
子供達は私達民衆です。
そして、良薬は法華経です。
お釈迦さまは、序品から寿量品まで『生身の釈迦』が、
実は、『法身の釈迦』でもあるのだ・・・と、手を変え品を変え述べているストーリーだそうです。


そして、『生身の釈迦』が入滅するのは、私達、民衆を教化するための方便で、
本当は滅度したのではなく、『法身の釈迦』として、いつでもどこにでも、私達、民衆のために、法(法華経)を説いているのだと、明らかにしたということです。


つまり、仏の神髄は、『法身の釈迦』としての、
いつでもどこにでも、私達民衆のために法を説いている『永遠の命』を指しています。


そして、その法とは、すべての人が正しい生活(法華経の実践)をすれば、
調和し、すべての人が幸せになれるということらしい。


だから、まず始めに自ら正しい生活を実践し、
そして、あなたにも実践していただいて、
みんなで幸せになりましょう・・・ということが、法華経の教えです。



法華経の信者は「南無妙法連華経」と、お題目を唱えますが、
これは、唱えることで、法華経に書いてあることを思い出しなさいということです。
そして、必ず、書いてあることを実践しなさいといいます。
(法華経にも実践死なさいと書いています)


実践すれば「ご利益」があるとも書いています。
「ご利益」=「お金が入る」と短絡に考える人がいますが、
答えは前記の喩をよく読んでください。


読んでもらえばわかりますが、喩に言うほど重要な教えですが、
どこにも「寄付」「寄進」 「布施をしろ!」などとは書いていません。


良い行いをしろとは言いますが
タイ国の小乗仏教(上座部仏教)のように、自分は修行できないから、
修行する僧に食べ物などを寄進(布施)しろとは、
中国や日本の大乗仏教では言いません。

しかし、修行する僧の生活の面倒は、信者がみてあげる必要はあると思います。
これは施主(パトロン)の仕事です。

貧乏人が施主になってはいけません。
貧乏人は、貰うほうです。
法華経で言いたいことは、貧乏である民衆は、布施「寄付」「寄進」ではなく、
良い行いをしなさいということです!
そうすれば「ご利益」があることを「喩」でくどくど言っているでしょう!

貧乏人が布施「寄付」「寄進」をすれば、
「仏罰」が必ずあたりますよ。怖いですよ!


布施「寄付」「寄進」をするのは、お金持ちになってからです!
貧乏なうちは、絶対に絶対に、
布施「寄付」「寄進」をしてはいけません。

ひたすら良い行いをしなさい。・・・と法華経もくどくど言っています。
では、良い行いを実践して、皆様がお金持ちになることを願っております。



恭仏院恭博


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