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経題である 摩訶般若波羅蜜多心経 の意味

摩訶般若波羅蜜多心経

まかはんにゃはらみたしんぎょう

「般若波羅蜜多心(プラジュニャーパーラミターフリダヤ)経」は、「悟りに至る智慧(智慧の完成)の核心の教え」という意味になります。

「般若」は「智慧」、「波羅蜜多」は「悟りに到達する」あるいは「完全な」、「フリダヤ」は「心臓」で「核心」という意味です。

【解説】

「摩訶」とは、超越のことです。
摩訶は、おおきいさま(大)や、すぐれたさま(勝)やおおいさま(多)の全てを包括した言葉ですが、通常は大きいさまをいいます。
しかし、LMSなどのように比較や形容ではなく、いつ、どこにでも、欠かすことなく満ち足りて存在する。と言う意味です。
「超越的実在」とか「超越的無意識」、「実在的的無意識」、「宗教的無意識」という人もいます。
それは、「仏性」(誰もがもっている仏となるべく性質)の心といわれます。


「般若」とは、バーリー語のパンニャーを音写して「般若」の字を当てています。
意味は「知恵」です。
どのような知恵かというと、全ての存在の根源という意味での理性といいます。
仏陀の教えによれば、全ての存在の原点は「空」です。そうすると、「空」を理解できる、働きが「般若」の知恵です。
参考までに、お酒のことを、坊さんの隠語で「般若湯」といいますが、これは「知恵をくらますもの」という逆の意味で戒めているのです。


「波羅蜜多」とは、梵語のパーラミータの音写で、意味は「完成」です。
内容は、経の本文に出てくる仏の道を修めるということから、<彼岸に至れる状態>といわれます。


「心」とは、「心」と「こころ」とに分けて考えます。
一般的に、仏教者は、感情は「心」でその奥にある普遍なものが「こころ」としています。
仏教の経典の多くは、インドの文字を中国の文字、時には、発音にあわせて翻訳されました。
サンスクリットのチッタ(citta)もフリダヤ(hrdaya)も「心」と漢訳しています。
チッタ(citta)は「精神の心」でフリダヤ(hrdaya)は中心の意味です。

日本語訳がここから、すこしずつ変わってきます。
般若の<中心、真髄>に重きをなして理解するのか、般若の<精神の心>に重きをなして理解するのか、です。
現代は、「心」というと<精神の心>と言うよりも、悲しい心とか、心の高ぶりなどと言うように、<感情の状態>を指す場合が多いようです。
弘法大師は、経典の内容から考えて、単なる<中心、真髄>ではなく、<般若心(こころ)の経>といわれたとのことです。
それで、感情は「心」でその奥にある普遍なものが「こころ」としています。
こころ とは般若の知恵のこころ です。


「経」は教えです。

【補足】

ただし、「心」は、お経の最後に解かれている「真言(呪文)」のことを指しているという解釈もあります。

この場合は「般若心経」は「悟りに到達する智慧の真言の教え」という意味になります。

仏説摩訶般若波羅蜜多心経

インドの原典にはタイトルはなく、このタイトルは中国でつけられ、さらに日本でその前に「仏説摩訶」をつけました。


恭仏院恭博


鐘楼は鳴らして時刻を知らせる為の施設です。ただし、梵鐘は単に時報として撞かれたものではなく、その響きを聴く者は一切の苦から逃れ、悟りに至る功徳があるとされるものですね。
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