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千手千眼観音は人間の苦悩の姿

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄

かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみたじ しょうけんごうんかいくう どいっさいくやく

観自在菩薩  行深般若波羅蜜多を行じし時  五蘊皆空なりと 照見して一切の苦厄を度したまえ

現代語訳は

観音さま(観自在菩薩)は悟りに至る智慧を完成する修行をされ、
物も心も幻のようなものだと理解することで、
すべての苦しみや災いから抜け出すことができました。

または

観音は、深遠な知恵の完成を実践していたときに、
存在するものには五つの構成要素があると見極めた。
しかも、観音はこれらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いた。

などなど訳者によりいろいろです

【解説】

「観自在菩薩」とは「観音菩薩」のことで、言語はアヴァローキテーシヴァラといい、先に鳩摩羅什(くもらじゅ)は、 「観世音菩薩」と訳したが、後、三蔵法師で有名な玄奘(げんじょう)はあらたに「観自在菩薩」と訳くした。

観音とは「音を観る」

「観世音」を略して「観音」とは、 音は聞くべきであるのに「音を観ずる」つまり「音を観る」とは、香道とかでは、香をたいてその香りで香の名前を当てるのですが、 この場合「香をかぐ」とは言わずに「香を聞く」と言うそうです。 香りは鼻で「嗅ぐ」べきなのに「聞く」というのに似ています。

「観」は字典で「明らかに見ること」のほか、「掴む」という動的な意味のほうが近いようです。 言葉を知らない赤ちゃんが泣くとき、母親には、空腹やおしめの汚れが見えているといいます。 母親には、わが子の泣き声でミニ見えないものが見える働きを備えている。 それは慈悲のこころがあるからだといいます。このことで「観察知」と言う知恵があることを知ります。

「観光」は、本来「他国の優れた制度や文物を視察すること」でしたから、 光を掴む敬虔な感情を意味しているのでしょうね。

仏教には、「三世三千の諸仏」といわれるほど、多くの仏の名前があります。
菩薩ですので、もちろん実在した人物ではありません。

ここで大乗仏教の仏である「菩薩」についてお話しします。 仏陀が死んだ後、在家信者に共感する修行者や仏教理論家たちがいて、彼らの中から「大乗仏教」なるものが生まれてきます。 大乗仏教の特徴は、在家信者も解脱できる大きな乗り物があることです。 つまり、大乗です。大乗で在家信者も悟りを得て解脱することができると教えます。

大乗仏教は、歴史上の実在した仏陀以外に、理念としての仏陀の存在を考えるようになります。 それでは、大乗は歴史上の仏陀自身の教えと違うと、異を唱える人が、昔も今もいます。

しかし「仏陀の教えが理論的に発展していったもの」と考えれば良いと考えるのです。 ですから、大乗も仏教です。

出家修行者だけではなく、大乗の教えでは、在家の信者も、「悟りの世界」、に行けますよ! つまり彼岸(ひがん)に、載せていってくれる大きな乗り物がありますよ。

と説いています

これに対して出家者しか悟ることのできない従来の仏教を、 大乗仏教側は傲慢(ごうまん)にも、小さな乗り物、小乗仏教と言って蔑視します。

(小乗仏教は、正しくは上座部仏教といいます)

仏陀が悟りをひらいた時、いったんは誰にも理解できないから、 仏法を説くのはやめようと思ったけれど、考え直して説法を始めますが・・・・・ そのような仏陀であれば、在家信者を見捨てることもないはずです・・・・と考えたのです。。。。。。。。。。 強引な論法でしょう!在家信者も悟りをひらけるまで、教えを説き続けてくれるはずだ、という考えが生まれるのです。

仏陀の教えを法、ダルマといいますが、
そのダルマそのものが仏陀である、と考えます。 宇宙の法則の中に、「永遠の仏陀」が存在している。こう言うとロマンですね!

その為、大乗では「菩薩」(ぼさつ)というものを考えました。大発明です!

大きな乗り物=菩薩です。小乗仏教では、仏陀そのものを信仰しますが、大乗仏教では、仏陀そのものではなく、菩薩を信仰します。だからタイに行くと、どの寺も仏陀だらけです。逆に日本や中国は、どの寺も菩薩や如来だらけです。

こういうストーリーです!

「菩薩は悟る力があるのに、在家信者が悟りを開けるまで待ってくれる!」こういうストーリーです!悟ってしまえば釈迦(仏陀)と同じですから、もう導けません。。。。

そして、在家信者が悟りを開けた時、初めて菩薩も悟りを開く、そういう有り難い先生と言うか、大きな乗り物の運転手が菩薩です。中国語で観音菩薩は観音先生です。でもなかなか地球上の多くの人間は、悟りを開いてくれません!だから運転手の菩薩は、永遠に悟りの地にいけず、われわれを導いている。。。という位置付けです。

日本の仏教界では、菩薩など多くのほとけたちは、仏陀が覚られた「こころ」の「象徴的存在」と、理論づけされています。象徴とは、眼や耳などの対象にならない抽象的な内容を、何かの形を借りて具体的に表現することです。

仏陀の悟りの内容は、感覚では捉えられないから、「ほとけ」の名として口で唱えることによって実感させようとするのです。

眼で見て、手で触られるようにして「仏像」として表現されています。
では、偶像と同じではないかと言う人がいますが、仏教界では「象徴」であって「偶像」ではないといいます。
何で奈良の大仏があんなに大きいのか?経は仏の心が大きいことを話しますが、大仏を見れば「大きなこころ」が実感してわかると思います。だから象徴なのです。

三世とは、過去・現在・未来をさし、それぞれに千仏いて、合計三千の仏です。 しかし、実際に、この世に生まれて、そして亡くなったのは実在した仏(悟りをひらいたもの)は釈尊(お釈迦さま)だけです。

仏画に見る「鬼」や「餓鬼」は「怪獣ではないのです。千個の眼に、千本の手、そして、その1本1本の指に1つづつ眼がある、「千手千眼観音像」を見て、ほとんどの人が、気味が悪い、グロテスクだと思うと思います。しかし、グロテスクなのは仏像でなくて、怪奇に見える人間の心の状態のほうだといいます。

説法では、人間のもつ苦悩や希望などが、「嘆き」や「願い」となって仏陀の教えに導かれても、 そうした状態でしか表現できなかたt「うめき」を感じとることだといいます。

そのように言われて、改めてみてみると、怪奇でも偶像でもないことがわかる気がします。 さらに突っ込んで言えば、偶像どころか、現在の自分の姿、理想を持った自分の真の姿と凝視できるといわれます。

深般若波羅蜜多・・・深い般若波羅蜜多とありますがこの「深い」は浅い、深いの対比ではなく「空に徹した立場」をさすそうでう。梵分現代語訳では「深遠な知恵の完成を行ずる時」と表現されている。具体的には、人間が人間として完成するために実践しなければ」ならない六項目(これを六波羅蜜とか六度と言う)を実践することですが、この六項目は単独でなく関連して表裏一体となければならない。

その第1が「布施 ふせ」です。現在この布施の解釈が誤用されるというよりか悪用されていることは悲しいことです。今は、皆、「施」=「施す」という寄付を含めた「福祉的」な意味合いで使っていますが、正しくが「布」が主で、地に沁みとおるように、限りなく広くしみとおることで「施」は感謝の心で、社会に返礼していく行為です。

人間が本当の人間になるための第一の請願は「みんなを幸せにする」と言うことです。人間は無限にいます。無限と考えると気が遠くなります。

言っておきますが、「援助交際」でお金やものを上げることは、布施ではないですよ。宗教団体にお金や不動産を寄付する布施も、布施ではないですよ。

その第2が「持戒 じかい」です。

戒めをたもつ(持つ)という意味です。戒は「人によくしてあげなくてはいけないとの「いましめ」でもあります。これは人間の生きる基準であるので「律」といいます。「それで「戒律」という熟語があります。「律」は「旋律」という言葉もありますね。つまりリズムです。人として、好ましいことに励み、このましカラムことから離れるというリズムw乱さないところに快適な生活が営まれるのです。。

その第3が「忍辱 にんにく」です

忍辱は人間完成のための「徳目」です。第二の持戒=リズムを整えるには、自分の内外からの誘惑にまず耐えることです。仏教の「忍」は、世間で言われる、歯を食いしばって「ならむ堪忍するが堪忍」だと信じ込んだり、あきらめることではなく、人は愛しあわねばならないとの道理をよく知りながら、憎しみあいます。これはリズムが乱れているからです。この乱れたリズムのそこには、乱れることのない真実の「こころ」があるのを信じるのが「忍」です。

この世の中、思うようにはいきません。思うようになるのは人生ではないと言い切る人もいます。だれも思うような人生は送れないのです。好意が通らないで、悪意になってかえってくる絶望。報いられない嘆き。満たされない、むなしい悲しい悲しみ。・・・・・・ 人間生きている限りは味わわねばならないといわれます。この心のひもじさに耐えるのが「忍」の徳目です。

その第4が「精進 しょうじん」です。

「精進」は励むことです。しかし、特に自分自身を建設することの努力限定です。相撲道に精進します・・・とか聞いたことがあると思います。仏陀は、生活のために働く勤勉さもさりながら、正しい道を求める心を起こさぬ人を「怠惰者」として厳しく戒めています。生を受けて死ぬまで精進といいます。一切万物は移り変わり、生じては滅し、滅しては生ずる、流転の相なりとの「空」に徹した「無常」観の知恵による人生の受け止め方です。「布施」「持戒」「忍辱」も、この無常観が元で、励む心が生じます。「無常」とは固定観念の否定です。もの全てが動き、そして変わりつつあるのです。その意味で、すべててが「生きている」のです。

その第5が「禅定 ぜんじょう」です。

「禅」はジャ^ナーの発音を移したもので「定」はその意味です。これは中国独自の翻訳法だということです。ならば「定」は「心を安定させること」です。ふかぶかと安定した心の状態で座禅することに通じるそうです。

忙しいときでも「こころ」の底に、ふかぶかとした平静な安定をたもち、 逆に平静なときでも、いつかは感情の嵐が来るであろうと、自分自身の心が自分でも、あてにならないことを冷静に見つめるのが禅定の働きというそうです。

その第6が「知恵」です。

「知恵」は、人間が人間になる。知恵とは自己そのもの、あるいは自己に内在するものを学ぶ最高の認識のことです。人間が人間として完成するために努力する人間を「菩薩」といいますが、人間は能力はありますが自覚していません。人間性に目覚めるのを仏教では「成仏」といいます。死人ではありません。生きている人間です。ですから「成仏する」と言うのは「人間が人間になる」ということです。死人は成仏しません。また生きるのです。誰が死人を「仏」といったのですか?

パスカルは「人間は考える葦」だといいます。考えるということは、この底に「愛する」こころがなければ、考えることが「知恵」にならないといいます。言葉を愛する人は、言葉を考えて使います。人を愛する愛する人は、心優しき人。人を考えて使います。自分を愛する人は自分を考え、人生を考えます。そこに知恵が芽生えるといいます。また知恵に裏づけされた愛が「慈悲」です。

全ての存在の原点は「空」であることを認識し、理解できる知恵です。知識とは全く次元が異なることを認識しなくてはなりません。

「照見」それは照らし見ることです。照らし見せられる事実。ここに安らぎが生まれます。あらゆる苦しみから救われる「度一切苦厄」とはこういうことだといわれます。一切の苦厄から度われるとは苦しみがなくなることではなく、事実としては、苦しみがあるが、それが苦しみでなくなるというやすらぎの」状態のことです。

【補足】

朝日新聞社刊「仏像に思う」で、 哲学者の梅原猛氏は、
西国五番の札所、藤井寺の千手千眼観音像のことを、
『千本の手の見事さ、その手は救済者の手のはずなのに、
どうかすると私には、 その手が苦悩する民衆の手のように見える..。。。。。。

私はこの手は無明の闇から突き出して、
天に向かって何事かをわめいている手のような気がして仕方がない。

ある手は、もだえているようであり、
ある手は訴えるようであり、
ある手は祈るようである。
無数の欲望と無数の欲望の挫折の仕方に応じた無数の苦悩。

その無数の苦悩の微妙な陰影がさまざまな手の表情になって現れているようである』

私には梅原猛氏の観察感が、
「行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄」 
の全てを教えてくれている気がします。
千手千眼観音は人間の苦悩の姿なのです。


恭仏院恭博


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