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因縁

舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是

しゃりし しきふいくう くうふいしき しきそくぜくう くうぜしき やくぶにょぜ舎利子よ  色は空に異ならず 空は色に異ならず 色は即ち是れ空 空は即ち是れ色 受想行識もまたまたかくの如し

現代語訳は

(そして、観音さまはお釈迦さまの弟子の舎利子(シャーリプトラ)に
次のように説かれました。)

舎利子よ、
本当にある物だと思っているものは幻に他ならないのですが、真実なるものは見えている物を離れて存在するわけではありません。
物の本当の姿は移ろいゆくものであり、真実なるものが物の背後にあるのです。
これは物についてだけでなく、感覚やイメージ、意識のような精神的なものについても同じです。

または

舎利子よ! 
この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、
びっ質的現象でありえるのである。
実体がないからといっても、それは実質的現象を」はなれていない。
また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的減少であるのではない。
このようにして、およそ物質的現象とと言うものは、
すべて、実体がないことである。
これと同じように、感覚も、意思も、知識も、全て実体がないのである。


などなど訳者によりいろいろです



【解説】


舎利子は、小乗仏教を象徴する長老のシャーリプトラのことです。


「色不異空」は、色は空に異ならず
色は全ての物質現象をいいます。
私たちの認識の対象となるのは、色彩と形状があるからです。
私たちの肉体も、当然この「色」に属します。


ということは、色不異空・・・人間の体(五体)は空だといっているのです。


空とは、言い換えれば実体がないということです。


貴方は、自分は、自分はというが、そんな自分なぞというものはないんだ!と強烈です。
つまり、存在するものの、既成概念の否定をされるのです。


美しい姿に眼をつぶるのは偏見といいます。
いつまでも美しいと思うのも真実に逆らう「倒見」です。
正しい認識は、
表面の美しさを、すなおに、美しいと見るとともに、
その底にある空しさも見つめることだといいます。


また逆に、
美しいものはないのだと、見えすえながら、しかし目の前の美しいものを、
素直に美しいと見るのが「観音さま」に象徴される「観る」働きといいます。


どう、観るか、まず「色は空に異ならず、つまり、色不異空と見るのです。


しかし、これでは、眼の前にいる若い美しい女性をみて、その女性の老い、そして遺骨を想像すようなものです。


それで、
「空不異色」は、空は色に異ならず と現実を肯定しているのです。


否定の否定は何もありません


それで、まとめです
色即是空
色とは私たちの肉体を含め、全ての物質的現象を言います。
では、存在する一切を物質ではなく「物質的現象」とするのは何かというと、
それは「因縁」がそうさせているというのです。

ではその重大な因縁とは、
因縁については、仏陀が「因縁の法」を説いています。


私たちは、毎日の事柄を見たり、聞いたり、経験したりしますが、
その現象面だけを経験したり見たり知るだけですぅ。


どうしてそうなったのか、そのわけを深く考えずに、
ただ泣いたり、喜んだり、怒ったり、うろたえたりするだけで、深い理由を知ろうとしません。
これでは、少しも人生の解決にならないというのです。


仏陀は、一切の現象を見つめ、見抜いて、全ては単一で存在するのではなく、
互いに関連し合って生成されるというのです。


「因縁」とは「因」と「縁」のことで、
「因」とは、結果を生じさしめる内的な直接的原因で、
「縁」とは、外側から是を助成する間接的原因ですから、「内因」「外縁」とも言います。
一切のものは因縁によって消滅するから「縁成えんじょう」とも言われます。


すべての物質ではなく
すべての物質的現象(色)は、単一に存在するのではなく、
何らかの因と縁が複雑に合わさって生成されたものものだか、
単一の存在はない、つまり実体はない。
この意味が「色即是空」と表現されるといわれます。


私たちは、とかく現実として、五官の対象となるものだけが実在と思い込み、
それに頼ると幸せがあるように思い込みます。


しかし、幸福の対象が奪われたり、なくなったりすると、懐疑的になり、
悟ったような感覚を起こし、因縁の法を忘れてしまいます。
これではいけないのは当然です。それで空即是色。



空即是色
色即是空の結果、世の中は無常だと思い込みます。
小さな小さな「空観」の穴に落ち込みます。
しかし、人が充実した人生を送るには、この穴をぬけださなくてはなりません。
倒覚をもう一度、ひっくり返すのです。それが「空即是色」です。
それで、梵語現代語訳は「およそ、実体がないということは、物質的現象なのである」となります。
これで安心しましたね!


受想行識亦復如是
受想行識も亦(また)復(また)是(かく)の如(ごと)し、
梵文現代語訳では「感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。


受・想・行・識と「色」をあわせのが「五蘊」で、
現代語訳にあわせると
色は物質的現象
受は感覚
想は表象
行は意志
識は知識
になります。
そして、それらがみな「空」であるといっています。


つまり、思うこと、することなど、みな「空」だといっているのです。



【補足】

「空」の思想 「般若心経」は小乗仏教を批判するかのごとく、
大乗仏教の「空」の思想を説いています。
これは大乗仏教を象徴する観自在菩薩(観音様)が、
小乗仏教を象徴する長老のシャーリプトラに説くという設定にも現われています。
「空」の哲学的な意味は、すべてのものに実体性がないということです。
また、「空」の境地とは何事にもこだわりのない心のことです。
悟りにもこだわるな、煩悩の克服にもこだわるな、と教えます。

煩悩の克服や悟りにこだわると、それが執着になってしまい、かえって悟れない結果になってしまいます。
こうしたこだわりをすべて捨てれば、おのずから「空」の境地がひらけ、
彼岸=悟り へ到達できるということでしょう。
玄奘三蔵の訳には「空」の思想を要約しているような、 有名な「色不異空 空不異色/色即是空 空即是色」という部分があります。


「空」は数字の「ゼロ」に通じます。
インドでは「ゼロ」を基点としますが、ヨーロッパ人は当初「ゼロ」を知らなかったといいます。
「ゼロ」の観念をヨーロッパ人に教えたのはインド人です。
インド人の発想は、「ゼロ」と「空」とが同義語ではなく、
「空」の持ついろいろな意味の中に「ゼロ」もあるということです。

恭仏院恭博


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