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快楽以前の因果律で考える仏陀

無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 

むむみょう やくむむみょうじん ないしむろうし やくむろうしじん むくしゅうめつどう むちやくむとく

無明もなく 亦(また)、無明(むみょう)の尽(つ)くることもない。 乃至(ないし)、老(ろう)も死(し)もなく、また、老(ろう)と死(し)の尽きることもない。  苦(く)も集(しゅう)も滅(めつ)も道(どう)もなく、 智(ち)もなく、亦(また)、得もなし。

現代語訳は

老いも死もないし、老いや死がなくなることもありません。悟りを得るための仏教の教義にこだわることも、悟りを得たと思うことも間違いです。何ものにもとらわれないようにするのが良いのです。

また

(さとりもなければ)迷いもなく、(さとりがなくなることもなければ)迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。

などなど訳者によりいろいろです

【解説】

無無明 亦無無明尽とは、無明もなく、無明の尽きることもなし と漢訳します。 無明とは、無明の言語は、梵語のアビドヤーです。 仏教辞典には、「人生の真理に対する正しい知恵のないこと。 事象や道理をはっきり理解できない精神状態・煩悩や不幸の根本原因」とあります。 そして「この正しくない知恵によって、人間のあらゆる行為や経験がつまれていく」と言うのが基本的な解釈です。 「本能」も、この無明の中に含まれるというから、厄介です。 「無明」の「無」は「ない」意味と「無始」の意味を併せ持っているので、 「無始」は、始まりがないとと言うことです。したがって終わりもないことになります。 教わらずとも、いつの間にか人間の根底に座を占めているので、「根本無明」とか「盲目的本能」とも言われます。 乃至無老死 亦無老死尽とは、老いも死もない、老いと死がなくなることもない と漢訳します。 「生まれたら、必ず老い、そして死ぬ」という因果の鉄則から逃げられません。 生・老・病・死を空じるとは、 このことを否定するのでは無く、 「生・老・病・死」の現実の世界に生きていきながら、 そのことに好き嫌いの感情で、執着することなく、 すなおに老い、すなおに病み、すなおに死んでゆく、生き方をすることだといわれています。 無苦集滅道とは、 無智亦無得とは、 br>

【補足】

フロイトは、人間の生命は「快楽原理に基づく男女の営み」によって生まれたといいます。 是に対して、仏陀は、はじめに「無明」があった。それは、遠い遠い久遠の始まりからと言うのです。 この無明が原因となっての、男女の本能の営みが「行」であるというのです。そして、そこに新しい「生命」が宿る。と、 精子卵子の結合以前のことまでを因果律で明らかにするのです。 ですから、因縁で説明すると、赤ん坊は、無明を因として、父母を縁として生まれてきたのです。

恭仏院恭博


鐘楼は鳴らして時刻を知らせる為の施設です。ただし、梵鐘は単に時報として撞かれたものではなく、その響きを聴く者は一切の苦から逃れ、悟りに至る功徳があるとされるものですね。
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