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菩提薩埵

以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罫礙 無罫礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃

いむしょうとくこ ぼだいさった えはんにゃはらみたこ しんむけげ むけげこ むうくふ  おんりいっさいてんどうむそう くぎょうねはん

得る所なきを以(もっ)ての故に菩提薩埵(ぼだいさった)は、般若波羅蜜多(はんにゃはらみ菩薩さまは、この智慧を完成されたので、すべてにこだわりがありません。こだわりがないので恐れもありません。誤った妄想を一切お持ちでないので、完全に平安な心でいらっしゃいます。

現代語訳は

何ものにもとらわれないようにするのが良いのです。菩薩さまは、この智慧を完成されたので、すべてにこだわりがありません。こだわりがないので恐れもありません。誤った妄想を一切お持ちでないので、完全に平安な心でいらっしゃいます。過去・現在・未来の仏さまも、この智慧を完成されたために、この上なく正しく目覚められました。

また

得るということがないから、諸々(もろもろ)の求道者の知恵の完成に安(やす)んじて、人は心を覆われることなく住している。心を覆うものがないから、恐れがなく、顛倒した心を遠く離れて、永遠の平安に入っているのである。


などなど訳者により議論百出です



【解説】
以無所得故 菩提薩埵とは、漢訳では、得る所なきを以っての故に菩提薩埵 となります。

菩提薩埵は梵語のボーディサットヴァの音訳です。
さらに略して「菩薩」です。
さとりを求める人・求道者のことです。



依般若波羅蜜多故とは、漢訳では、般若波羅蜜多に依るが故に となります。
般若・・・・・バーリー語のパンニャーを音写、して「般若」で「知恵」と訳します。
波羅蜜多・・・梵語のパーラミターの音写で「完成」です。



心無罫礙とは、漢訳では、心に罫礙なし と読みます。
罫礙」とは、「さえぎる・妨げる」の意味ですが、
心経の現代語訳は「覆われることなく」とあります。
「こだわりがない」ととるのが自然な日本語のようです。



無罫礙故 無有恐怖とは、漢訳では、罫礙なきが故に、恐怖あることなし となります。
つまり、こだわりがないから、怖いことがない。



遠離一切顛倒夢想とは、漢訳では、一切の顛倒夢想を遠離する となります。
顛倒とは、「ひっくり返ること、さかさまに成ること、うろたえさわぐこと」と辞典にはあります。
本来は、仏教語で、「道理をそのとおりにみず、さかさまに間違えてみること、真理に違うこと」です。



究竟涅槃とは、漢訳では、涅槃を究竟すること です。
涅槃は、ニルヴァーナの音写で、全ての迷いを脱した、平安な心の状態をさします。


涅槃は、平安な心の状態ですから、苦のままで幸せを楽しむことができるのです。



【補足】
無智亦無得(智もなく得も無く)、 以無所得故(得る所なきの故に)というと、
全てを空じられています。
何もかも空じられて、自分のものは何ひとつない、何ひとつないと、ということもない。
自分もない、ない自分というものもない。
空じるということは、どこにもとどまらない。
とどまると渋滞しますから、渋滞しないように前へ進んでいくのが般若の知恵だといいます。
もともと、全ては移り変わってゆくのです。
それを「諸行無常」といいます。
諸行無常というと大変淋しい語感なので、「移り変わるつつある悲哀の感情」と、とるのです。



日本の仏教行事の一つに「お盆」があります。
この「お盆」の言語がウランバナで、それを中国で「盂蘭盆 うらぼん」と音写し、
さらに略して「盆」となったのです。
このウランバナの訳は「倒懸」で、逆さにつるされるよう烈しい苦しみを言うのです、つまり「顛倒」のことです。
ですので、日本の仏教行事の「お盆」は仏教とはかかわりありません。中国で書かれた偽境から来ているのです



恭仏院恭博


鐘楼は鳴らして時刻を知らせる為の施設です。ただし、梵鐘は単に時報として撞かれたものではなく、その響きを聴く者は一切の苦から逃れ、悟りに至る功徳があるとされるものですね。
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